
2026年1月10日(土)_日帰り_2回目_【登頂】
みなさまは「筑波山」について、どれぐらいご存知でしょうか?恥ずかしながら、私は初めて登った2023年時点まで、名前と日本百名山で一番標高が低いことくらいしか知りませんでした。そこから、このブログで第1回目の筑波山登山について記事を書く時に、改めて筑波山について調べましたが、全然足りていなかったです…。現代でも筑波山の周りには多くの人が住んでいますが、人が行き交う量が多いのは昔からのようで、色々な歴史的なエピソードが数多くありました。今回は、前回の記事より更にみなさまに「筑波山」を知って頂けて、行ってみたいなと思っていただけるように、紹介させていただきますので、ぜひ最後までご覧ください!!

「筑波山 」 877mに刻まれた2000年の信仰史
「西の富士、東の筑波」と称されていますが、西の富士山の標高は3,776m。対して、東の筑波山の標高は877m。標高では語れない数多くの魅力が「筑波山」にあると考えられてきました。この山ほど長く、厚く、人々の営み、信仰が積み重なった山も少なく、神話の時代から幕末の政変、現在に至るまで歴史が積み重なっています。そんな「筑波山」を歩くことは、そのまま関東の信仰と歴史を歩くことに等しいです。このパートでは、男体山・女体山の二つの峰を持つこの山に眠る、2000年分の物語を掘り起こしていきます。
「西の富士と東の筑波」対比の由来は、富士山が断り、筑波山が迎えた夜
すべての始まりは、奈良時代に編纂された『常陸国風土記(ひたちのくにふどき』に記された、ひとつの伝説にあります。
常陸国風土記の記載内容
筑波郡
古老の曰へらく、昔、神祖の尊、諸神の処に巡り行でまししに、駿河の国福慈の岳に至りたまひて、卒に日暮に遇ひ、寓宿を請欲ひたまひき。此の時、福慈の神答へて曰へらく、「新粟の初嘗して、家内諱忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ。」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひしく、「即ち汝が親ぞ。何ぞも宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極、冬も夏も雪霜ふり、冷寒重襲り、人民登らず、御食を奠るものなけむ。」とのりたまひき。更に筑波の岳に登りまして、亦容止りを請ひ給ひき。此の時、筑波の神答へて曰へらく、「今夜は新粟嘗すれども、敢へて尊旨に不奉ひまつらじ」とまをしき。爰に、飲食を設けて、敬拝み祇承へまつりき。是に、神祖の尊、歓然びて謌ひたましく、愛しきかも我が胤巍きかも神宮天地の竝斉日月と共同に人民集ひ賀ぎ飲食富豊に代代に絶ゆること無く日に日に弥栄え千秋万歳に遊楽窮らじとのりたまひき。是を以ちて、福慈の岳は、常に雪降りて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往き集ひ、歌ひ舞ひ、飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(以下略く)
より引用 筑波山(つくばさん)|常陸国風土記を訪ねる|常陸国風土記1300年記念2013年は、奈良時代(713年)に風土記編さんの詔がだされてから1300年。東日本で唯一今に伝わる常陸国風土記は、当時の茨城の姿を今に伝える貴重な文化遺産です。
内容としては、神さまの親?(神祖の尊)が諸神のもとを巡っていたある日、駿河国の富士山にたどり着き、一夜の宿を求めた。しかし富士山の神は、新嘗(にいなめ)の物忌み(神様へ新穀を捧げてお祭りするため、日常の行為を慎みケガレを避けて心身を清める期間)を理由にこれを拒みます。怒り悲しんだ神祖は、富士山に「これからは一年中雪や霜に閉ざされ、人が登れぬ山となれ」と呪いの言葉を残したと言われています。

この話に出てくる「富士山」の神は、はたして「コノハナサクヤヒメ」と同一神なのでしょうか…?ただ名前は、明言されていないみたいです。「コノハナサクヤヒメ」については、「三浦富士」の記事で触れているので、こちらも是非読んでくれると嬉しいです!!

一方、筑波山にたどり着いた神祖を、この山の神は温かく迎え入れた。その礼として神祖は、筑波山には人々が絶えず行き集う山となるよう祝福を与えたと伝わっています。
ここに伝わっている内容にもあるように、常陸国風土記で「富士山」と「筑波山」の対比が始まったみたいです。ここから2000年の信仰が始まっていきます。
万葉集の山、恋の歌垣(かがい)
奈良時代、筑波山はまた別の顔を持っていました。有名な『万葉集』の中で山を詠んだ歌のうち、筑波山を詠んだ歌は、富士山を詠んだ歌よりも多く、全国の山の中で最多を誇るそうです。
その理由のひとつが、「歌垣(うたがき)」——東国の方言では「嬥歌(かがい)」と呼ばれた風習です。春と秋の年に二度、若い男女が山に登り、飲食をともにしながら求愛の歌を掛け合ったとされています。「筑波山」は、「日本三大歌垣」に選ばれており、他には佐賀県の「杵島山(きしまうやま)」、大阪府の「歌垣山(うたがきやま)」が選出されています。
歌垣の様子をもっとも生き生きと伝えるのが、万葉歌人・高橋虫麻呂の長歌(巻九・一七五九番)と言われており、鷲の棲むという筑波山の「裳羽服津(もはきつ)」のほとりに、若い男女が行き集い、歌を掛け合う。その日ばかりは人妻に言い寄ることも、この山を支配する神が、昔からお許し下さっている行事であり、今日だけは、見苦しいとは見るな、咎め立てしてはならない。
現代の感覚からすれば驚くような内容ですが、これは山の神が定めた特別な祭りの日のルールだった。厳粛な信仰の山、という一面だけでなく、人々の生活と恋愛がそのまま営まれる場でもあり、それこそが古代の筑波山の姿と想像できる。今も神社境内の「万葉の小径」や、男体山登山口の「萬葉公園」、白雲橋ルート沿いの「万葉古路」には、25首すべての歌碑(石碑)が点在しており、歩きながらその歌に出会うことが可能です。

みんなお互いに誰が誰だかわからないように、お面を被っていたりするんですかね…?こういう伝承を見ると思っちゃいます。怪しい社交パーティーみたいな。
神と仏がひとつだった山 ― 知足院中禅寺
平安時代に入ると、筑波山は新たな信仰を得ることになります。延暦元年(782年)、山の中腹に千手観音を本尊とする堂宇が建立され、「知足院中禅寺」と号されたのがその始まりと伝わります。坂東三十三観音霊場の第二十五番札所として、多くの参詣者を集めた古刹(こさつ)です。
大御堂の縁起
筑波山は古代から、その秀麗な山容などから、「神の山」として崇敬されていた。延暦元年(782)徳一上人が筑波山頂二社を再建、筑波大権現と称し、中腹に堂宇を建立して、本尊千手観音菩薩を安置、知足院中禅寺と号して始まる。弘仁年間(810-823)には、弘法大師によって真言密教の霊場となったともいわれる。
開山徳一上人、中興は応永元年(1394)元海上人、明応元年(1492)知足院第1世法印宥玄、7世宥俊は慶長七年寺領五百石を賜り、血脈法流1世となる。
第2世は光誉。元海までは天台宗であったが、明応元年から慶長まで真言宗の法脈が続き、幕府にも法脈が公認される。
引用元
伝へ|筑波山大御堂 公式サイト伝へ|大本山護国寺別院、筑波山知足院中禅寺、大御堂。坂東三十三観音第25番霊場。1400年間、霊峰筑波山に千手観音菩薩をご本尊とし、関東平野の絶景を望み人々を見守り続ける。
この時代、筑波山神社と中禅寺は強く結びついていました。「神仏習合」 神と仏を同じ山、同じ信仰の中に祀るという、明治以前の日本ではごく当たり前だったあり方が、ここでは「三御堂」と称されるほどの巨大な伽藍(がらん:僧侶が集まって仏道を修行する清浄な場所、または寺院やその主要な建物群)として、大切されていきました。
また、険しい峰を持つこの山は、同時に修験者たちの行場でもあり、今回私が登った白雲橋ルート沿いに今も残る奇岩群「母の胎内くぐり」はその代表格です。狭い岩の隙間を身をかがめてくぐり抜けることで、生まれたままの清らかな心身に立ち返るという、修験道の行として今に伝わっている。ただの面白い形をした岩ではなく、そこは千年以上前から続く「山岳修行の跡地」なのです。
徳川将軍家が祈った山 ― 江戸城鎮護の寺として
江戸時代に入ると、筑波山の役割はさらに大きくなります。慶長15年(1610年)には、知足院中禅寺の江戸別院として、江戸の地に護摩堂(ごまどう:密教寺院において護摩(火法)を焚いて祈願を行う仏堂)が建立されました。元禄元年(1688年)には五代将軍・徳川綱吉の後押しによってこの護摩堂が「護持院(ごじいん)」と改称され、上野寛永寺と並び称されるほどの巨刹(きょさつ:きわめて規模が大きい寺院や、立派な大伽藍を持つ名高い大寺)へと発展しました。
筑波山は、徳川家康・秀忠以来の将軍家が代々加持祈祷(かじきとう:仏の慈悲と人間の信心を合わせ、神仏の力を借りて災難や病気を除き、願いを叶えるための宗教儀式)を託した、江戸城を守る霊山の役割があったとされています。宝暦4年(1754年)と明和4年(1767年)には二度の大火に見舞われ仁王門(桜門)を失いながらも、本尊の千手観音はその都度難を逃れ、信仰の中心であり続けました。
江戸から見て北東に位置する筑波山は、鬼門を守る山としての役割も担っていたと考えられ、単なる観光の対象ではなく、政治と信仰が交差する、いわば「国家の守り神」でした。この時代こそ、筑波山の信仰がもっとも厚みを増した時期と言えると思います。
大御堂の縁起
江戸期には、宥俊が中興の祖として別当に補任され、慶長七年徳川家康より朱印五百石を賜る。2世光誉は江戸別院として建立されていた護摩堂(江戸知足院)の経営にあたり、江戸在府となり、以降江戸知足院が筑波山には院代を置き、寺務を執行させることになる。3代将軍家光は、筑波山造営を命じ、七堂伽藍の大寺院となった。
引用元
伝へ|筑波山大御堂 公式サイト伝へ|大本山護国寺別院、筑波山知足院中禅寺、大御堂。坂東三十三観音第25番霊場。1400年間、霊峰筑波山に千手観音菩薩をご本尊とし、関東平野の絶景を望み人々を見守り続ける。
破壊と再生 ― 明治の神仏分離
慶応3年(1867年)、大政奉還により江戸幕府が幕を閉じると、将軍家の祈祷寺としての知足院中禅寺の役割も、その存立理由ごと失われました。
明治元年(1868年)、神仏分離令が発布されました。本来は神社と寺院の運営を分けることを目的とした政策でしたが、現実には各地で、神社の別当寺とされていた真言宗・天台宗の寺院の多くが「廃寺」に追い込まれる、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を排斥し、寺院や仏像を壊す動き)の嵐へと発展していきます。
筑波山も、その激しい波に呑まれ、千年以上の歴史を誇った知足院中禅寺の伽藍は徹底的に破壊・焼却され、残ったのは神橋と仁王門(現在の随神門)、そしていくつかの境内社のみだったと伝えられています。そして、かつて中禅寺の本堂があった、まさにその跡地に建てられたのがー今、私たちが目にする筑波山神社の拝殿です。
一方、本尊の千手観音は東京・護国寺の保護によって解体の危機を免れ、昭和5年(1930年)、山麓に「大御堂」として再興されました。戦後には本堂も再建され、1200年を超える歴史を持つ本尊は今も、その姿を私たちに見せてくれています。
大御堂の再建
明治の廃仏毀釈により筑波山知足院中禅寺が廃寺となる。中禅寺大御堂の本尊、千手観音菩薩坐像は、中禅寺の東側にあった古通寺境内の仮堂に移され、崇敬者たちによって護られていくこととなる。しかし、昭和十三年(1938)、山津波によって古通寺は流出してしまう。そこから大御堂本尊は奇跡的に救出され、民家に移された。そして昭和三十六年(1961)、筑波山大御堂は、護国寺別院としてつくば市筑波の現在地に再建されたのである。古来より神と仏が御座した筑波山の山容と、その霊峰筑波山に対する人々の祈りや思い、厚い信仰心は変わらず堅いものであった。
明治十四年(1881)、筑波山観世音再建の願書が地元七か所村の信徒らが連署し、惣代2名が京都の泉涌寺まで持って行き、前住職福美湛然に預けた。廃仏毀釈からおよそ十年、早くも筑波山麓の村々では、中禅寺大御堂の再建を願ったのである。頼った泉涌寺は、真言宗の皇室の菩提寺で、「御寺」と呼ばれる泉涌寺派総本山である。しかし、残念ながらこの願いは実らず、昭和五年(1930)に護国寺持仏堂として再興され、昭和十五年(1940)に再建の認可がおり、昭和三十六年(1961)に護国寺別院として筑波山大御堂は再建を果たした。そして数多くの紆余曲折へて令和二年、さまざまな人々の願いを受け筑波山大御堂の新本堂が落成し現在に至る。
引用元
伝へ|筑波山大御堂 公式サイト伝へ|大本山護国寺別院、筑波山知足院中禅寺、大御堂。坂東三十三観音第25番霊場。1400年間、霊峰筑波山に千手観音菩薩をご本尊とし、関東平野の絶景を望み人々を見守り続ける。
ガマの油の物語
「筑波山」と切っても切り離せないのが、「ガマ」です。ガマの油は、筑波山ではものすごく有名です。有名になったきっかけですが、1753年、筑波山麓・新治村出身の永井兵助という人物が、ガマ石の上で一週間考えて例の「さあさあお立会い」の口上を考案し、江戸・浅草寺境内などで実演販売したところ大成功。これがガマの油売りという大道芸として全国に広まりました。ここで初めて「筑波山=ガマの油」というイメージが江戸の庶民に浸透し、現在まで引き継がれています。
筑波山基本情報
- 山 名:筑波山(つくばさん)
- 別 名:紫峰(しほう)、筑波嶺(つくばね)
- 標 高:877m(女体山)、871m(男体山)
- 所在地:茨城県つくば市
- 分 類:日本百名山、水郷筑波国定公園
- 特 徴:日本百名山の中で最も標高が低い山でありながら、「西の富士、東の筑波」と称される名峰です。男体山と女体山の2つのピークを持つ「双耳峰」で、男体山側には日本屈指の歴史を誇る筑波山神社の大神様が鎮座し、古くから信仰の対象とされてきました。ケーブルカーやロープウェイが整備されているため初心者や観光客でも気軽に山頂付近へ行ける一方、徒歩での登山口からは標高差約600m超の本格的な急登や「弁慶七戻り」に代表される巨大な奇岩・怪石のルートが楽しめます。山頂からは関東平野を一望でき、天候が良い日には富士山や都心の高層ビル群まで見渡せる圧巻の展望が広がります。
- 紙地図:実際に携行した地図のリンクです。
いざ冬の筑波山へ
















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