
皆様は、長野県の「蓼科神社(たてしなじんじゃ)」をご存知でしょうか。八ヶ岳連峰の北端にそびえる「蓼科山」は、標高2,530.7m。「日本百名山」のひとつで、なだらかな山容から「諏訪富士」「女の神山(めのかみやま)」とも呼ばれる、古くからの信仰の山です。
蓼科神社は、この山そのものを御神体とする古社で、山頂に「奥宮(本宮)」を、北の山麓の立科町に「里宮」を構えています。今回は、蓼科山の山頂に鎮座する奥宮に登拝した記録とあわせて、里宮・奥宮の由緒を、いくつもの資料を照らし合わせながら紹介していきます。
「蓼科神社」と聞いて、まず気になるのはどんな神様が祀られているのか、というところですが、ここでも「諸説あり」の枕詞がついてまわります。資料を突き合わせると、中心的な祭神は「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」とされています。天地のはじめに現れたと伝わる神です。
もっとも、この神社の成り立ちを考えるうえで大切なのは、社殿よりも先に「蓼科山という山そのもの」が拝む対象だった、という点でしょう。山を直接おがむ古い信仰があり、里宮はその山を里から拝むための社だと説明されています。
文献の上でも、平安時代前期の『日本三代実録(にほんさんだいじつろく:平安時代前期に編まれた歴史書で、清和・陽成・光孝の三代の出来事を記しています。各地の神社が神階を授けられた記事も多く収められており、蓼科神社の「蓼科神」もそこに登場します。)』にまでさかのぼるとされ、蓼科山を見上げて祈った古代の人々の姿が、その奥にあると考えられています。
蓼科神社の由緒|蓼科山そのものを御神体とする古社

蓼科神社は、山頂の奥宮を本源とし、山麓の里宮をその遥拝の場とする、二つの宮からなる神社です。里宮がいつ遥拝所として整えられたのかは、史料の上でははっきりしません。複数の資料は、社殿を構えて神を迎えるより前の、山そのものをおがむ段階の信仰を、この神社がよく残していると評しています。
神社の東の山麓にあたる雨境峠(あまざかいとうげ)の一帯には、「鳴石(なるいし)」や「与惣塚(よそうづか)」と呼ばれる祭祀の遺跡が残り、勾玉が数多く出土しています。この峠道は古代の東山道にあたり、行き交う人々がここから蓼科山に手を合わせたと伝えられています。
祭神は「高皇産霊神」|里宮と奥宮で異なる配祀神
中心的な祭神は「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」と伝えられています。あわせて祀られる神については、里宮と奥宮で異なると伝える資料が多く見られます。
長野県神社庁の記載では、里宮に高皇産霊神・大己貴命(おおなむちのみこと)・木花佐久夜毘売(このはなさくやひめのみこと)の三柱を、奥宮(奥社)に高皇産霊神・倉稲魂神(うかのみたまのかみ)・木花佐久夜毘売の三柱を挙げています。
ただし、この里宮と奥宮で配祀神を対比させる説明は、主として長野県神社庁の記述にもとづくものです。
このほか、奥宮の祭神を、水分神(みくまりのかみ)・保食神(うけもちのかみ)・稚産霊神(わくむすびのかみ)まで含めて六柱とみる資料もあり、里宮の祭神の御子神にあたる八柱を奥宮に祀っていたとする見方も伝わります。祭神をどう数えるかは、資料によってまちまちだというのが正直なところです。
『日本三代実録』にみえる「蓼科神」|創建の伝承と文献
里宮がいつ始まったのかは、はっきりしていません。社伝は推古天皇12年(604年)を創建の年としますが、これを裏づける史料は残っていません。
文献のうえでこの神社に結びつけられている最も古い記録は、『日本三代実録』にある、信濃国の「蓼科神」が神階を授けられたという記事です。この「蓼科神」が現在の蓼科神社にあたると推定されています。
記事の年次を元慶2年(878年)とする点は資料に共通しますが、月日と授位前の位階については記述に幅があります。7月16日の条とし正六位下から従五位下に昇ったとする資料がある一方、9月16日の条とし正六位上から従五位下に昇ったとする資料もあります。
『延喜式』神名帳には載らない、いわゆる式外社ですが、正史に名がみえることから「国史見在社」に数えられます。佐久郡の式外社のなかでは最も古いとみる資料もあります。
神仏習合期の呼称と「蓼科神社」への改称、近世の歩み
仏教と神道が一体だった時代、この神社は「大明神」「権現」の名で呼ばれていました。里の社は「高井明神(高井大明神)」、山頂の社は「八王子権現」を名のり、ほかに「飯盛神(いいもりがみ)」「八塩権現」といった呼び名も伝わります。「高井」は山中に水の湧く場所があることに、「飯盛」は盛った飯を思わせる山の形にちなむ、という説明がなされています。
中世の一時期には広い社領をもっていたとも伝わりますが、戦国の世を経て社勢は大きく傾いたようです。近世に入って社殿を建て直したのが、地元の今井治兵衛という人物で、寛永年間(17世紀前半)のことと伝えられています。
その後の蓼科神社は、周辺の牛鹿(うしか)八ヶ村がまとまって祀る総社と位置づけられ、小諸藩からも手厚い扱いを受けたとされています。現在地への里宮の遷座は享保年間(18世紀前半)ともいわれ、秋の例祭に芦田郷中の獅子舞や行列が加わったのも、このころからだと伝わります。
明治のはじめに神仏分離が行われると、社は神社として再編されます。明治6年(1873年)に郷社となり、明治8年(1875年)には社名が「蓼科神社」に改められたと伝えられています。
里宮に伝わる女人禁制の伝承
里宮がなぜ里に置かれたのかを説く言い伝えもあります。『高井明神由来記』を引く資料によれば、蓼科山は不思議なことの起こる山であり、女性が登ることは許されない、だから里で拝むように――そうした神のお告げがあって里宮が設けられた、というのです。
女性の登拝を禁じる習わしと、里宮が拝所として成り立ってきたことの由来を、この話は結びつけて語っています。また里宮は、身ごもった女性を守り、参れば子孫が栄えるとして信仰されてきたとも伝わります。
奥宮の由緒|日本武尊の伝説と諏訪の神
奥宮の由緒は、社伝によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征のころにさかのぼるとされます。もちろん伝説の域を出るものではなく、時代を確かめる手がかりはありません。平安期には坂上田村麻呂や平維茂(余吾将軍)が手を入れたという話も伝わります。
諏訪の神をめぐる、少し変わった伝承もあります。長野県神社庁の由緒には、国土を諏訪の神にゆずった武居夷神(たけいえびすのかみ)が、あらたな地としてこの蓼科山を選んで移り住んだ、という筋書きが記されています。これらはいずれも、史実というより語り継がれてきた物語として受けとめられています。
里宮の境内と御神木「神代杉」
里宮の参道入口には、御神木の大杉が立っています。「神代杉(じんだいすぎ)」「高井明神の杉」と呼ばれ、樹齢は1,500年を超えると見られています。
立科町教育委員会などが設けた案内板によると、かつては高さ39メートルほどあったものの、幾度かの火災で上部を焼き、いまは20メートル前後。幹まわりは目の高さでおよそ10メートルあるとされます。
このほか境内には、「蓼科神社」「立科嶽里宮」と刻まれた社号標、高井稲荷、狛犬、天満宮と愛宕神社、天照皇大神宮、旧本殿跡と伝わる八角形の石、かつての鎮座地を示すともいう「蓼科神祠碑」などがあると紹介されています。こうした石造物や境内社は、次回の参拝であらためて写真とともに取り上げる予定です。
例祭と奉納屋台
例祭は、里宮が9月20日、奥宮(奥社)が7月20日と伝えられています。里宮の秋祭で曳かれる屋台は、立科町の指定文化財です。造られたのは江戸中期、小諸藩のすすめによると伝わります。
ヒノキ材を主に用い、黒漆塗りの彫刻や彫金の金具で飾られ、緞帳には金銀の糸で花鳥や狛犬があらわされています。
特に柱を滑車で上下させて二階部分をせり上げる仕組みは、屋台としてはめずらしいものだといわれます。
蓼科神社 基本情報|所在地・アクセス・駐車場
蓼科神社 里宮
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名称 | 蓼科神社 里宮(たてしなじんじゃ さとみや) |
| 所在地 | 長野県北佐久郡立科町芦田高井424 |
| 鎮座地 | 長野県道40号(諏訪白樺湖小諸線)沿い、立科町役場の南・芦田川右岸。境内は東向き |
| 車でのアクセス | 上信越自動車道 佐久ICから約22km(約32分)/諏訪ICから約45km(約58分)/東部湯の丸IC・小諸ICから約30分 |
| 公共交通 | JR北陸新幹線 佐久平駅からバス約32分/JR中央本線 茅野駅からバス約45分+徒歩5分 |
| 駐車場 | 普通車10台・無料 |
| 拝観 | 境内自由。社務所は常駐なし(無人) |
| 例祭 | 9月20日(獅子舞・道中行列・奉納屋台) |
蓼科神社 奥宮(本宮・奥社)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 鎮座地 | 蓼科山 山頂(標高2,530.7m)。山頂は茅野市と立科町にまたがる |
| 参拝方法 | 蓼科山への登山(登拝)を伴う |
| 主な登山口 | 七合目登山口(蓼科神社の一ノ鳥居が立つ表参道口)/大河原峠/すずらん峠(女乃神茶屋) |
| 山頂の様子 | 岩塊に覆われた円形の旧火口跡。積み石の塚の上に石造の小祠が南向きに立つ |
| 例祭 | 7月20日 |
| 登山の注意 | 蓼科山の登山には登山計画書の提出が必要 |
※奥宮の住所表記は資料により幅があり、「立科町芦田蓼科5154」とするものと、地図サービス上で「立科町大字芦田八ケ野」とするものがあります。
蓼科神社の御朱印は「確認中」です
蓼科神社の御朱印については、里宮がふだん無人であることもあり、授与しているかどうか、しているならどこでいただけるのかを、今回の下調べでは確かめられませんでした。次回、里宮を参拝したときに社頭の掲示や兼務社での対応を確認し、分かりしだいこの記事に書き加えます。
蓼科山 登拝記録|七合目登山口から山頂の奥宮へ
奥宮への登拝記録については、2025年08月の実際に登った記録がありますので、こちらを参考にしていただきたいです!YAMAPのログも載せておきます。

晩夏の「蓼科山」_2025 / ぼいどさんの蓼科山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
蓼科神社の参拝はこんな人におすすめ
蓼科山(日本百名山)に登る予定の人
蓼科山は初心者向けの登山コースとしても人気ですが、その山頂は「蓼科神社の奥宮」という信仰の場でもあります。山頂の石祠と鳥居の由来を知っておくと、岩だらけの広い山頂で過ごす時間が、少し違って感じられるはずです。七合目登山口には蓼科神社の一ノ鳥居が立っており、ここから登れば「表参道を歩いて奥宮に参る」という気分が味わえます!
神体山・山岳信仰に興味がある人
蓼科神社は、社殿よりも先に「山そのもの」があり、里宮はあくまでその山を里から拝む場である、という古い信仰のかたちをよく残しています。雨境峠の祭祀遺跡や、女人禁制の言い伝えとあわせてたどると、神社という形が整う前の、日本の山の信仰を考える手がかりになります。
式外社・国史見在社など、古社めぐりが好きな人
『延喜式』の神名帳には載らないものの、正史である『日本三代実録』に名がみえる「国史見在社」です。祭神の数え方や神階記事の読み方に諸説があり、そのあたりを資料と突き合わせて考えるのが好きな人には、味わいのある一社です。
静かな里宮とご神木をゆっくり味わいたい人
里宮は県道沿いにありながら、参道は芝生と石段の静かな空間で、入口には樹齢1,500年を超えるとされる御神木「神代杉」がそびえています。観光地化されていない、地元に大切にされてきた古社の空気を味わえます。
あとがき
この記事は、蓼科山の山頂に鎮座する奥宮を参拝したうえで、里宮・奥宮の由緒を複数の資料から整理したものです。里宮についてはまだちゃんと現地を訪ねられておらず、境内の詳しい構成や御朱印の有無など、確認できていない点が残っています。
それらは2026年12月に予定している里宮の参拝であらためて確かめ、写真とともにこの記事へ追記する予定です。祭神や創建の由緒には諸説があり、本記事でも「〜とされています」「〜と伝えられています」という書き方を多くしています。
断定を避けているのは情報があいまいというよりも、いくつもの諸説ありの結果として、そう書かせていただきました。


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