皆さまは、「御嶽山(おんたけさん)」をご存知でしょうか?「日本百名山」であり、「複合成層火山」であり、そして今も噴気を上げ続ける「活火山」でもあります。標高3,067mは、活火山の中では富士山に次ぐ日本第2位の高さで、3,000m峰の中では最も西に位置する独立峰でもあります。
富士山・白山・立山とならび、古くから「霊峰」として山そのものが信仰の対象とされてきた御嶽山。その登山道沿いには、全国各地から登拝に訪れた「御嶽講(おんたけこう)」の足跡である「霊神碑(れいじんひ)」が、今も無数に並んでいます。
一方で2014年には、戦後最悪といわれる火山災害も経験しています。信仰の山としての顔と、活火山としての顔。その両方を知っておくことが、御嶽山を歩くうえでは欠かせません。今回は、その2つの顔についてまとめてみました。
御嶽山信仰の歴史 ―修験の山から「講」の山へ
御嶽山の名前は、かつて「王御嶽(おうのみたけ)」と呼ばれていたことに由来するとされています。修験者たちが「王の御嶽」と尊称したことが転じて、「御嶽」という呼び名になったと言われています。地元では、今も親しみを込めて「お山」「おやま」と呼ばれているそうです。
伝承では、飛鳥時代の702年(大宝2年)に、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)によって開山されたとも言われていますが、実際に一般の人々が「登拝」できるようになったのは、江戸時代中期以降のことです。それを成し遂げたのが、覚明(かくめい)行者(ぎょうじゃ:仏道や修験道などの厳しい修行をする人)と普寛(ふかん)行者という、出自も道のりも異なる二人の行者でした。
覚明行者――尾張の百姓の子が見た「二ノ池」の夢
覚明行者は、享保3年(1718年)、尾張国春日井郡牛山村(現在の愛知県春日井市付近)の百姓・清左衛門の子として生まれたと伝えられています。出家して天台密教(台密)を学び、御嶽権現への信仰を深めるなかで、宝暦2年(1752年)から明和3年(1766年)にかけて、7度にわたり御嶽山への登拝・修行を重ねました。
恵那山(えなさん:この山も日本百名山です)で修行中に御嶽権現(おんたけごんげん)からのお告げを受けたことをきっかけに、黒沢口(くろさわぐち)を開くことを決意したとされ、天明2年(1782年)に御嶽山周辺の村々へ入り、布教と修行を重ねます。そして天明5年(1785年)、ついに軽精進(けいしょうじん:本来は長い期間かけて行う「精進潔斎(しょうじんけっさい)」を、数日間や簡易的な水行などに簡略化・短縮したものです)での黒沢口登拝を実現させました。
覚明行者は、その後まもなく山頂付近の二ノ池(にのいけ)のほとりで、立ったまま入定(にゅうじょう:修行者が瞑想の姿勢のまま入滅すること)したと伝えられています。生涯をかけて開いた聖地に、そのまま還っていったという逸話です。
普寛行者――秩父の剣術道場から、いくつもの霊山を開いた行者へ
普寛行者は、覚明行者よりも13歳年下の享保16年(1731年)、武蔵国秩父郡大滝(現在の埼玉県秩父市大滝)で、剣術道場を営んでいた木村信次郎の五男として生まれました。幼名は好八(こうはち)といい、幼いころから父に直心影流(じきしんかげりゅう、秩父心陰流とも)の剣術を学び、学問は三峰山観音院高雲寺の学問所で修めています。
一度は江戸に出て武士として仕官しますが、明和元年(1764年)に三峰山観音院に入り、修験者となって「普寛」を名乗りました。天明2年(1782年)からは、五穀を断つ厳しい修行「木食行(もくじきぎょう)」を始め、諸国を遊行しながら数々の霊山を開いていきます。上野国の三笠山(みかさやま)や、武蔵国の意波羅山(いわらやま)を開いたのち、寛政4年(1792年)に木曽へと入りました。
普寛行者は、木曽から江戸へ出稼ぎに来ていた杣(そま:木こり)から山の情報を集め、覚明行者がすでに開いていた黒沢口とは別に、新たに王滝口登山道を開くという選択をしたと伝えられています。この判断が、御嶽山に「黒沢口」「王滝口」という2つの登拝ルートをもたらしました。
普寛行者は、御嶽山を開いたあとも歩みを止めず、寛政6年(1794年)には越後の八海山(はっかいさん)を、寛政7年(1795年)には上州の武尊山(ほたかやま:これも日本百名山です)を開き、武尊大権現を祀っています。享和元年(1801年)、71歳で武蔵国本庄宿(現在の埼玉県本庄市)の米屋弥兵衛宅にて、風邪をこじらせてこの世を去ったと伝えられています。
なぜ「精進潔斎」の緩和が必要だったのか
覚明行者以前の御嶽山は、麓で100日間(75日間とする史料もあります)にわたる「精進潔斎(しょうじんけっさい)」を行った者しか登ることを許されない、極めて閉じた信仰の山でした。潔斎中は白衣を着用し、ニラ・ネギなど匂いの強い食材(五辛)や魚肉を断ち、同衾(配偶者と床をともにすること)も禁じられるなど、厳格な戒律が課されていたとされています。
覚明行者は、この状況を見て、水行(みずぎょう:冷水を浴びて心身を清める禊)を中心とした短期間の「軽精進」による登拝を掲げ、一般の人々にも御嶽権現の恵みを届けようとしたとされています。
既存の信仰秩序との軋轢もあったと考えられますが、覚明行者の没後もその意志は弟子たちに引き継がれ、普寛行者が王滝口を開いた寛政4年(1792年)には、軽精進での登拝が正式に認められるようになりました。
この改革によって、御嶽山は一部の修験者だけのものから、一般の人々も訪れることができる「講」の山へと、大きく姿を変えていくことになります。
全国に広がった「御嶽講」
軽精進での登拝が認められて以降、御嶽山を信仰する「御嶽講(おんたけこう)」は、江戸や北関東を中心に全国へと広がったとされています。「講」とは、同じ信仰を持つ人々が村や一族の単位で結成した組織で、講員がお金を出し合って積み立て、くじで選ばれた代表者が代わりに参拝する「代参講」という形も広く見られました。榛名神社の「榛名講」、大山阿夫利神社の「大山講」、三峯神社の「三峯講」なども、同じ仕組みの信仰組織です。
御嶽講社は、各地に「〇〇御嶽講」「〇〇一心講」といった講社があり、たとえば御嶽神社田島一心講は、今も夏(8月)と冬(1月)の年2回、木曽御嶽山への登拝を続けています。
明治維新後の神仏分離によって信仰の形態も一部変化しましたが、明治15年(1882年)には教派神道の一派「御嶽教」として、政府から正式に立教独立が認められています。宗派を問わない独自の講社文化は、現在も御嶽山を語るうえで欠かせない存在です。
信仰の舞台となった自然 ―二ノ池・賽の河原と、生きている山の地形
御嶽山の山頂付近には、南北に連なる複数の火口湖があり、一ノ池・二ノ池…と呼び分けられ、賽の河原(さいのかわら)付近の窪地は六ノ池と呼ばれることもあります。
中でも覚明行者が入定したと伝わる二ノ池は、標高約2,905mに位置する日本最高所の高山湖(火口湖)として知られ、鉄分と硫黄分が太陽光の青色だけを反射することで生まれる、コバルトブルーの水面が長く親しまれてきました。
2014年の噴火で土砂に埋もれてからも少しずつ姿を取り戻していましたが、2024年秋には水がほぼ涸れて消滅したと報告されており、信仰の中心だった景観そのものが、御嶽山が今も動き続けている山であることを物語っています。
登山道沿いには、御嶽講の信者たちが没後の魂の帰る場所として建立してきた「霊神碑」が2万基を超えて林立し、中でも黒沢口沿いの「護摩堂原(ごまどうはら)霊神場」には約1万4千基が集中する、国内最大級の霊神場として知られています(このほか金剛童子霊神場・阿波ケ岳霊神場・クルミ沢霊神場なども点在します)。
霊神碑は、御嶽三神を祀る碑を最上部に、その下に覚明・普寛や各講の講祖の碑、さらにその下に一般信者の碑を並べるのが基本的な配列とされ、一つの霊神場が信仰の系譜図のような役割も果たしています。
こうした信仰の舞台は、実は自然環境としても特異な場所です。標高800m付近の巌立(がんだて)溶岩台地から、山頂の高山帯まで約2,500mの標高差があり、標高1,600〜2,400m付近にはシラビソ・オオシラビソ・トウヒ・コメツガなど、北海道やシベリアの森と同じ樹種からなる亜高山帯針葉樹林が広がります。
氷河期の影響が比較的軽微だった日本列島では多くの植物が生き残ったこともあり、御嶽山は「日本列島の植生の縮図」とも称されます。山頂付近ではハイマツ帯に、コマクサ・オンタデといった高山植物群落が広がり、特別天然記念物のライチョウが生息する、世界的にも南限に近い生息地の一つにもなっています(推定生息数は約70羽)。
信仰の道と、生態系の縮図が同じ山肌に共存しているのも、御嶽山ならではの魅力です。
御嶽山基本情報
- 山 名:御嶽山(おんたけさん)
- 別 名:木曽御嶽山、木曽御嶽、王御嶽(おうのみたけ)
- 標 高:3,067m(最高峰・剣ヶ峰)
- 所在地:長野県木曽郡木曽町・王滝村、岐阜県下呂市・高山市
- 分 類:日本百名山、複合成層火山、活火山
- 特 徴:剣ヶ峰を主峰に、摩利支天山・継子岳・継母岳などの外輪山を連ねる複合成層火山です。活火山としては富士山に次ぐ日本第2位の高さを誇り、3,000m峰の中では日本最西端に位置する独立峰でもあります。江戸時代に一般開放されて以降、全国から「御嶽講」の信者が登拝に訪れる、日本有数の山岳信仰の地としても知られています。
登る前に知っておきたい注意点(活火山としての御嶽山)
御嶽山は、今も気象庁の常時観測対象となっている活火山です。登山を計画する際は、必ず知っておいていただきたいことがあります。
2014年9月27日11時52分、御嶽山は水蒸気噴火を起こしました。紅葉シーズンの土曜日、多くの登山者が山頂付近にいた時間帯と噴火が重なったこともあり、58名が死亡、5名が行方不明となる(2024年10月時点)、戦後最悪といわれる火山災害となりました。噴石は直径数センチから60センチにもおよび、時速350〜720kmという猛烈な速度で降り注いだと報告されています。
噴火後、気象庁の噴火警戒レベルは3(入山規制)まで引き上げられ、その後2015年6月にレベル2、2017年8月にレベル1へと段階的に引き下げられてきました。2024年12月以降、山頂付近で火山性地震がやや増加した時期もありましたが、2025年5月20日には、地獄谷火口から概ね1kmの範囲に影響する噴火の可能性は低くなったとして、噴火予報(レベル1・活火山であることに留意)が発表されています。
ただし、地獄谷火口内では火山灰などが突発的に噴出する可能性が今も指摘されており、登山の際はヘルメットの携行が推奨されています(現地でレンタルできる場合もあります)。また、王滝口登山道は年によって規制区間や規制期間が変わるため、登山前には必ず気象庁の火山情報や、木曽町・王滝村の最新情報を確認してください。
美しい信仰の山であると同時に、今も生きている山であること。御嶽山に登る際は、この2つを忘れないようにしたいです。
登山口までのアクセス
黒沢口(おんたけロープウェイ)
長野県木曽町側の黒沢口では、「おんたけロープウェイ」を利用することで、山麓の鹿ノ瀬(かのせ)駅から一気に標高約2,150mの飯森高原駅(七合目相当)までアクセスできます。標高を大きく稼げるため、初心者にも比較的挑戦しやすいルートです。
鹿ノ瀬駅周辺には第1〜第7まで駐車場があり、合計約1,500台駐車可能です。公共交通の場合は、JR中央本線・木曽福島駅から木曽町営バスでロープウェイ乗り場まで約1時間5分、タクシーの場合は約50分(目安約8,000円)です。
田の原(王滝口)
長野県王滝村側の「田の原」は、標高約2,190m地点から登山を開始できる、剣ヶ峰への最短ルートとして知られています。噴火以降、区間や期間を限定した入山規制が続いており、年によって開放期間が異なります。登山を計画する際は、王滝村や長野県の公式情報で最新の規制状況を必ず確認してください。
おんたけロープウェイから始まる登山
御嶽山はこんな人におすすめ
御嶽山の歴史や特徴を調べてみて感じた、御嶽山をおすすめしたい人とおすすめ理由について、ご紹介します!
日本百名山ハイカー
・「日本百名山」の踏破を目指す人にとって、外せない一座です。
山岳信仰・修験道の歴史に興味がある人
・覚明行者・普寛行者による開山や、全国に広がった「御嶽講」、登山道沿いに並ぶ「霊神碑」など、山全体が信仰の歴史そのものです。
活火山ならではの迫力ある地形が見たい人
・剣ヶ峰を主峰とする複合成層火山ならではの、外輪山や噴気地形などダイナミックな景観を楽しめます。
ロープウェイを使って手軽に標高を稼ぎたい人
・「おんたけロープウェイ」を使えば、七合目相当の飯森高原駅まで一気にアクセスでき、体力に自信が無い人でも高所の景色を楽しみやすい山です。


コメント